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ヤかヤモか

 この難訓歌については、五句目と四句目の切れ目がどこなのかもポイントとして重要かと思う。
 岩波古語辞典によれば反語に使う「や(やも)」の上には已然形が来ることになっている。
もしも「不言八イハズヤ」が「イハザレヤ」であったら
「面」は五句目にいれることになる。

 総索引で調べてみると、
基本的に「〜だろうか、いや〜ない」という意味の反語のヤなのに
已然形以外のものを承けている例は全くなかった。

 ただし160同様「不」を付けて「ずや」として、軽く「〜ではないか」と問う例は
「過去計良受也スギニケラズヤ(すぎてしまったではないか)221
「野守者不見哉ノモリハミズヤ20」などいくつでもある。

 万葉集釈注の伊藤博も
「ずやは眼前の事実について他人の注意を引き、用意を求める形で感動をこめる用法。」
としている。

 また
「有登不言八方アリトイハズヤモ224
「有不言八方アリトイハズヤモ424
など160と同じ
「いはずやも(言うではないか)」という言い回しの例が存在することや、
「吾恋目八面ワレコヒメヤモ2255
「引目八面ヒカメヤモ2835
「思許理来目八面シコリコメヤモ2870
「有目八面アラメヤモ2904」など
「八面」を「やも」とする例があることから、ここは「八」で切らずに
「八面」で切った方がいいのではないかという気もする。

 ただし「八面」字の場合はすべてちゃんと已然形を受けていて「ずや」という例はない。
 また「メヤモ」は全部「目八面」という字になっていて、「目八方」という用字は一切ない。
 なので、切れ目についても断定することは出来ない。

モという音について

 この歌を見ると「もゆるひも」や「くも」などモ音が目に付く。
もし、作者がモという音でそろえたという可能性について考えてみるなら、
「面」字は「あひし」や「あはむ」にするよりは、「おもしる」や「やも」の一部であった方が良さそうだ。

 また、「智」の古訓には「サトシ・サトル・サカシ・トシ・トモ・シル・ヒトトナル
とあるので、モの入った読みで訓むことが出来そうだ。
また、もし「知+日」だとしても「知」には
シル・トモニ・サトリ・ナラフ・トモガラ・イカンデ・サトル」とある。
 「トモニ」という訓を生かして「知日=トモナヒ」(伴侶)という訓みはどうだろう。
 しかし、トモと訓む「知」や「智」の例は万葉集にはないし、記紀にもないので難しいかもしれない。

 以上いくつかの疑問について調べてみたが、
結局「よく判らない」という結論しか出なかった。

 最後に何の論にもならないが
訓みの助けになるかもしれない、いくつかの用例などを書きとめておく。

・「友無雲トモナヒナクモ2904」→「智男雲=トモナクモ」?
・「八十伴男呼ヤソトモノヲ(廷身)478」→「智男=トモノヲ」?
・「母智騰利乃モチトリノ800」→「面智=モチ」?
・「之知左寸トモシクモアルカ1562」→「知」を「モ」と訓んでいる
・「智」は天智天皇の「智」なので「じ」と読めないか
・「男星ヒコボシ20532058」→161と合わせて男雲となにか関係がないか
・西本願寺本にある「燃火物トモシヒモ」という訓みと対にして
 「知日=トモヒ」と訓むのはどうか
・「燃える火を袋に入れる」というのは魂を子宮に戻す、というようなイメージで、天武天皇の生まれ変わりを望んでいるのではないか。
 
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**参考文献**

萬葉集叢書第三篇万葉集檜嬬手 橘守部著折口信夫校訂  昭和四七年十一月  臨川書店   
萬葉集注釈 澤瀉久孝 昭和三三年四月中央公論社
萬葉集私注 土屋文明 昭和四四年六月 筑摩書房
萬葉集全講 成田祐吉 昭和三十年三月 明治書院
持統作歌と不可逆の時間 稲岡耕二 上智大学国文学科紀要第十五号平成十年三月
万葉難訓歌の解読 永井津記夫 九二年十二月 和泉書院
萬葉集訳文篇 佐竹昭広 昭和四七年三月 塙書房
萬葉集釈注 伊藤博 九五年十一月 集英社
万葉集 中西進 七八年八月 講談社
西本願寺本萬葉集 昭和五九年六月 主婦の友社
万葉集総索引漢字篇・単語篇 正宗淳夫 一九七四年五月 平凡社
字通 白川静 九六年十月 平凡社  古事記大成 昭和三三年五月 平凡社
日本書紀通釈索引歌文集 昭和五六年九月 冬至書房新社  他


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