万葉難訓歌・面智男雲
 

 燃火物 取而裹而 福路庭 入澄不言八 面智男雲

  燃ゆる火も 取りて包みて 袋には 入ると言わずや 面智男雲
  萬葉集巻二160

 この歌は次の161番とあわせて、「天皇崩之時太上天皇御製歌」とされている。
 持統天皇が夫の天武天皇の死を悼んで歌った歌である。

 第一句から四句までは「燃える火でも手にとって袋に入れると言うではないか」
と訓むのだそうだ。
 当時そのような呪術があったという推量のもと、この難訓部分は
「死んだ夫の魂も呼び戻せないか」というような言葉が続くのではないかと言われている。

 問題の第五句の四字(または五字)がどのように訓まれてきたか、以下に挙げてみる。
そんなの読んでられない、という人はへ。
 

萬葉集考 賀茂真淵

   入ると言はずやも 知ると曰はなくも

・「入ると言うではないか、知らないというのか。」の意。
・智を知曰の誤字としている。
・「男雲」をナクモと訓む。
・新訓万葉集(佐佐木信綱九一年一月岩波書店)もこれを支持。
 

万葉集檜嬬手ヒノツマデ

   逢はん日 なくも

・智を面知の誤字として。面知を「逢はん」と訓む。面知は逢見の義訓なので。
 

萬葉集注釈 澤瀉久孝

   入ると言はずや 逢はむ日招くもヲクモ

・「男雲」をナクモとは訓まない。

 「唇内韻尾の省略される場合」(木下正俊 『万葉』十号昭和二十九年一月)によれば
  「神南備カムナビ・情有南畝ココロアラナム」など
  「南」をナと訓んでンが消えるのは下にmかb音が続く場合だけなので、
  k音である「雲」の上でンが消えるのはおかしい。ナクニならあるけどナクモはない。

・「片思男責カタモヒヲセム719」「男為鳥ヲシドリ2491」という例があるので
 男はヲではないか。

・「招くヲク」(物を招き寄せる)の例「呼久ヲク4011」「呼伎ヲキ4196
 もあるので「ヲクモ」とする。「夫の魂を招き寄せたい」の意。

・万葉集中、第四句が八音の場合でヤモで結んだ例はないし、
 「智」を訓よみで訓んだ例もないので、桧嬬手にならい
 「面智=アハム」とする。が誤字説かつ義訓なのでより良い訳を探したい。

・萬葉集全注(稲岡耕二昭和六六年四月有斐社)、
 萬葉集釈注窪田空穂(昭和五九年九月東京堂出版)もこれを支持。
 

持統作歌と不可逆の時間 稲岡耕二

   逢ひし日 をくも

・基本的に上記澤瀉説「ヲクモ」を支持。

・ただし「天武と知り合った過去の日をもう一度招き寄せたい」という意味で
 「時間の不可逆性にたいする嘆き」をこめてアヒシヒとする。
 

萬葉集私注 土屋文明

   面知る なくも

・もうあの人の面を見ることもない、の意。
 

萬葉集全講 成田祐吉

   面知らなくも

・(崩御するなどとは)私にはわからないことだという意味。
 

万葉難訓歌の解読 永井津記夫

   聖ヒジリ 招くも

・(そのような法力を持った)聖を招き寄せたいという意味。
・「知日」で「ひじり」。「智」字そのものも賢者を表す。
・澤潟に反論して第四句が八音の例自体はあるのでヤモでいいとする。
・「ひじりをくも」では字余りになるが、162番などで持統天皇は他にも六音の歌を作っている。
 

その他

 その他「紀州本」オモテヲノコクモ、「西本願寺本」モチヲノコクモ、「代匠記」オモシルナクモ、「類聚古集」オモテヲノクモなど。 萬葉集訳文篇(佐竹昭広)、萬葉集釈注(伊藤博)は「イルトイハズヤモ智男雲」と漢字のままにして訓んでいない。
 

 以上の説を見ると「オモシルヲクモ」「アヒシヒヲクモ」「ヒジリヲクモ」が有力だが、
どれも決定的ではない。

 そこで、個人的にいくつか浮かんだ疑問を追及することで
訓みの助けにならないか考えてみた。
 結局答えは出なかったが、その途中経過は非常に興味深かった。

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