「こそ〜已然形」という係り結びには強調と逆接と二通りの意味がある。
この特徴を生かしたのではないかと思われる技巧について、連歌と和歌の中の用例を通して考察する。
その1 連歌のなかでの特殊な技巧
まず「湯山三吟百韻」の中にこんな歌がある。
ふる里ものこらずきゆる雪を見て 宗長(初裏三)
世にこそみちはあらまほしけれ 宗祇(初裏四)
新潮古典集成「連歌集」ではこの句の訳は
「この世の中にこそ正道が現れてほしいものだ。」となっている。
はっきりと強調としてとらえられている。
ところが次の
世にこそみちはあらまほしけれ 宗祇(初裏四)
なにをかは苔のたもとに恨みまし 肖柏(初裏五)
では「世の中一般にとっては正道が望ましいけれど、世捨人である自分は今更世の乱れを特に恨むにはおよばない」となっていて、逆接としてとらえられている。
前句で強調として使われていた「こそ〜已然形」をわざと逆接にとらえ変えることによって付け方を転じた、面白い技法なのではないだろうか
「享徳二年宗砌等何路百韻」の中にも、同じような例が見られる。
ささふく軒のつづく奥山 (三表四)
玉霰音する日こそ 寂しけれ (五)
雪降る此ろは野辺も目かれず (六)
四→五においては「笹ぶきの粗末な軒では霰の音のする日はとりわけさびしいものだ」といった強調の意味なのに、五→六においては「霰の音のする日こそ寂しいものだが、雪が降るとその美しさに野辺の風景から目が離せない」といった逆接の意味になっていている。
「天正十年愛宕百韻」でも同様に、
里遠き庵も哀れに住み馴れて (三表十三)
捨てしうき身もほだしこそ あれ (十四)
みどり子の生ひ立つ末を思ひやり (三裏一)
十三→十四では「人里離れたこの庵にも住み馴れた、世を捨てた身でも捨てきれない係累はあるが」といった逆接の意味で、十四→十五では「気がかりな幼い子の将来を思いやると、世を捨てた身にも捨てきれない係累があることだなあ」といった強調の意味になっている。
もうひとつ。「守武独吟俳諧百韻」でも
かへりてはくるかりがねをはらふ世に (十一)
さだめ有るこそからすなりけれ (十二)
みる度に我が思ふ人の色くろみ (十三)
において十一→十二では「烏金は借金を一日で返すと期限が決まっていて厳しいなあ」というような強調の意味で、十二→十三では「烏ははじめから黒いものと決まっていて変わらないが、妻はみる度に色が黒くなっていく」というような逆接の意味でとられている。
以上のように「こそ〜已然形」が強調と逆接、二重の意味を持っている点を上手く利用して前句からの転換をはかるという技巧は、存在していたのではないかと考えられる。
この技法は一人で作品を作るのではなく複数人で歌を連ねていく連歌の
「いかに前句を承け、いかに前句を裏切るか」という醍醐味に非常に良くマッチしているのではないだろうか。
その2 和歌一首の中で
「源氏物語」の歌の中の「已然形」の含まれている以下の二つの歌は、
「已然形」のもつ特徴を考慮することで、より綿密な訳を見つけられるのではないか。(?)
まず「総角」巻の中にある次の歌。
若草の ね見むものとは 思はねど むすぼほれたる 心地こそすれ
匂宮が同腹の姉女一の宮と語らっている際、ふと女一の宮の美しさに心ひかれて「せめて異母姉であったら」などと思いつつ歌いかけた、あざれた恋歌である。
その訳は新潮社の日本古典集成では
「若草のように美しいあなたと、共寝をしようとは思いませんが、やはり悩ましく晴れぬ思いがします。」、
岩波書店の新日本古典体系では
「若草のようなあなたと共寝をしようとは思わないが、やはり悩ましくて胸も晴れやらぬ、の意。」
となっている。
これらは「心地こそすれ」の「すれ」という已然形を「強調」としてとらえての訳だろう。
しかし用言が已然形をとっている場合、「強調」という意味の他に「順説」や「逆説」の意味も発生する。
そこで、「心地こそすれ」を「順説」としてとらえてみると「心地がするので」となる。
また「むすぼほれる」という言葉には、「(紐状のものが)からまり合って訳がわからないさまになる」「心が鬱屈した状態になる。」などの他に「縁故でつながっている」という意味がある。
この二つを合わせると「むすぼほれたる心地こそすれ」は「実の姉弟の気持ちがするので」という意味にとらえることができる。
小学館の「日本古典全集」はそのように訳している。
「若草のように美しいあなたと姉弟ゆえに共寝をしようとは思いませんが、悩ましく晴れやらぬ私の心です」。
そして、これをさらに一歩進めて、已然形を「逆説」としてとってみる。
「むすぼほれたる心地こそすれ」は「縁故でつながっている気持ちはしますが」という意味にとらえることも可能である。
しますがどうなのか、と考えた場合、やはりその続きは歌の冒頭に戻って「しますがあなたは美しいので妖しい気持ちにもなってしまいます」とつながるのではないだろうか。
つまり
若草のように美しいあなたと共寝しようとは思いません。
私たちは実の姉弟なのですから。でもやはり悩ましく切ない気持ちがします。あなたは美しいので。
というようなループした訳が導き出されることになる。
「こそすれ」という已然形を軸にして重層的な歌意がぐるぐると廻る構造になっている。
色々な思いがぐるぐるめぐってしまう状態というのは恋の煩悶に似ていて、恋歌を歌うのには適切、と言ったら言い過ぎか。
同じ様に「已然形」の捉え方がポイントになって複雑な歌意が導き出される歌に、「花の宴」巻の
世に知らぬ 心地こそすれ 有明の 月の行方を 空に紛えて
が挙げられる。
場面は、光源氏が朧月夜と初めて逢った後日、朧月夜の残していった扇をながめながら
逢瀬の際の様子を思い出して「つくづく眺め附し」ているところである。
この歌の訳は
「まだ経験したことのない悲しくさびしい気持ちがすることだ。
有り明けの月の行方を空の中とで見失ってしまって。」(角川)
「こんな思いは今までに味わったことがない、
有明の月(女)の行方を途中で見失ってしまって。」(新潮)
となっている。
「世に知らぬ心地」を「今まで知らなかった寂しい(または悲しい)気持ち」ととり、
「こそすれ」の已然形の意味を「強調」(あるいは「詠嘆」)としてとらえての訳である。
しかし、それだけのことを言うのにわざわざ倒置をしたり、中途半端に「紛えて」と言いさしたりするだろうか。
この巻の源氏と朧月夜は他の場面でも、しばしば非常に凝ったつくりの技巧的な歌を詠んでいる。
また、源氏はたった一度逢瀬をかわしただけの女の行方を見失い、
「あの人はどこの人か」「右大臣の姫かも」「しかし婿扱いされても困るし」「かといってこのままでは嫌だし」などとああでもないこうでもないと思いをはせ、
しかも女の残していった扇を手にとって、日がな宙を見つめて寝転がっているという状態にある。
その場で歌われる歌なのだから、作者紫式部はもっと多様な思いを源氏に歌わせたのではないか?
「若草の」の歌と同様、この歌の「世に知らぬ心地こそすれ」の部分を逆説としてとらえてみると「ヨニシラヌココチがしたのに女の行方を見失ってしまった」となる。
では「世に知らぬ心地」とは何だろう?
「世」には「人生」「男女の仲」などの意味がある。また、副詞「世に」には「全く。断じて」という意味がある。
これらを合わせると「今までの人生で全く知らなかった男女の仲に関する(つまり恋の)気持ち」といったような内容になる。
それがどんな気持ちかといえば、「素晴らしい気持ち」がしたととらえるのが妥当ではないか。
「素晴らしい恋の気持ちを知ったのに、あの人の行方は見失ってしまった」という新しい解釈が、已然形を逆説ととることによって導き出される。
源氏物語の中の華やかな場面やロマンチックな感情が、
「悲しみ」や「恨み」などのマイナスの感情からのみ解釈を与えられてしまっている例は他にもあるが、
そのような描写ばかりの物語が当時のうら若い女房連中の心をとらえ夢中にさせたとは考えにくい。
この解釈による意味と従来の意味とを合わせると、
今まで体験したことがない(ほど素晴らしい)気持ちを味わったのに、
あの人の行方は判らなくなってしまった。
判らなくなってしまったので今まで体験したことがない(ほど悲しく切ない)気持ちがすることだ。
となる。やはり已然形を軸にして一つの言葉から二つの異なる心情が導き出され、
それがぐるぐるとループする形になっている。
行方の分からない女を思って煩悶する源氏の姿にかさなって、その思いが切々と伝わってくる表現である。
以上のように、二重にも三重にも読み取れる意味がお互いに絡まりあって幾重にも重なった情景を描きだしているが、
このような重層的な歌が書かれてあるのは、実は「桜の三重がさね」の扇なのである!
三重重ねの扇に三重重ねの歌が書きとめられる、という作者紫式部のしゃれた技巧が大変面白く、
また、ベールのように幾重にも重なった思いはさながら春霞のようで、巻名「花の宴」とあいまって、春の盛り、桜の中で交わされた一瞬の恋、といった情景が伝わってくる。