石川啄木と「かなし」
 

秋の声 まづいち早く耳に入る
かかる性持つ
かなしむべかり

 この歌は明治41年8月、啄木23歳の時に歌われた。

 「秋の気配を誰よりも早く感じる、
  そういう性質を持つのはかなしいことだ」

というような意味の詩人としての自分の感性を歌った歌だと思われるが
それが何故「かなしい」のか?
 

 作品中「秋」の出てくる歌を調べてみると、

ほのかなる朽木の香り
そがなかの
きのこの香りに
秋やや深し
 

秋近し!
電燈の球のぬくもりの
さはれば指の皮膚に親しき
 

朝朝の
うがひの科の水薬の
罎がつめたき秋となりにけり
 

 など、啄木の敏感に秋を感じる詩的な感性が表れている歌は多い。
 

 啄木は瀬川深宛の書簡の中で

  平静意に満たない生活をしているだけに刹那々々の自己を文字にしてそれを読んで
  みて僅かに慰められる、随って僕にとっては、歌を作るのは不幸な日だ。
  歌なんか作らなくてもよいような人になりたい

と言っており、確かにそういう自分を悲しんでこの歌を作ったのだということは考えられる。
 

 ただし「かなしい」という言葉の出てくる歌を調べてみると
 
目さまして猶起き出でぬ兒の癖は
かなしき癖ぞ
母よ咎むな
 

をさなき時
端の欄干に糞塗りし
話も友は<かなしみてしき
 

晴れし日のかなしみ一つ!
病院の窓にもたれて
煙草を味ふ。
 

など「かなしい」をそのまま「悲しい」ととると意味がよく通らない歌は多い。
 
 

 さて「かなしい」という言葉が古文では「可愛い」とか「いとしい」とかいう意味を持つことは広くしられている。
 「日本国語大辞典」の記述はこうだ。
 

  かなし・い
   感情が通説にせまってはげしく心が揺さぶられるさまを広く表現する。
   悲哀にも哀憐にもいう。←→嬉しい。

   ・死、別離など、人の願いにそむくような事態に直面して心が強くいたむ。

   ・男女、親子などの間での切ない愛情を表す。身にしみていとおしい。

   ・関心や興味をそそられて、感興を催す。

   ・みごとだ。あっぱれだ。

   ・他から受けた仕打ちがひどく心にこたえるさま。残念だ。

   ・貧苦が身にこたえるさま。
 

 これらの意味を考慮して前述の歌を解釈すると、

「目を覚ましてなお起き出さない子供の癖は、かわいらしいいとしい癖だ。母よ咎めるな。」

「幼いとき端の欄干に糞を塗っていたずらした話も、友は懐かしんでした。」

「晴れた日の感興一つ。病室の窓にもたれて煙草を味わう。」

などとなる。
 なる程、すっきりとした意味のいい歌だ。
 

 少々論がずれるが、面白いのでここで「かなし」という言葉の記述をいくつか挙げてみる。
 

岩波古語辞典
自分の力ではとても及ばばないと感じる切なさ語をいう。動詞カネと同根であろう。
(筆者注:「○○しかねる」の「カネ」。) 
 

日本語語源辞典
カはケの交替系で心機・感情などの意。ナはナグ(和)・ナツク(懐)・ナレル(馴)と同梱で、密着して離れがたく思うさま。心になついてかわいくてならぬのが原義。
 

喜怒哀楽語辞典
小なるものはカワイラシイものであり、「かなし」は「小」からさらに「愛情」を表現することになった。
「小」への愛情は同情、憐愍じへ傾くことが考えられ、カワイソウの意味が起こる。
さらにカワイソウダと思う気持が自己の外ではなく内にはね返ってくると自己への卑小感から「悲」の感情がわき起こる。
また「身にしみて面白い」「風情がある」というのは直接「悲」「哀」と関係ないが、「かなしく〜なり」と他の語が間に入って完全な表現になる所をしだいに「かなし」の一語で他の意味も含むようになったものである。
 

国語語源辞典
サンスクリット、パーリー語、タイ語では少女をkanaといい、サカイ語では若い娘をkenaという。
琉球では、幼児の名に-ガネをつけて愛称とする。たとえば、太郎ガネ、真伊久佐ガネ、(中略)など。
国王のことを首里天ガナシ、御主ガナシなどといった。
日本古典にみえる婿ガネ、后ガネ、などのガネは、大言海は候補者の意としているが愛称とは解せられぬか。「折口信夫全集」によればマツルカネ(真鶴金、女の名)、マミナコガネ(真美那古金、女の名)などのカネも、カナシ(愛し)の略されたのが倒置された形で、「愛しい何某」という意味の名前、すなわち逆語順になっている形の名前だ、という。
インド・ヨーロッパ系の愛称語尾、-kin、-chenなど、例えばJenkin、Simkin、Lammchen、などはどんなものか。
 

 「語源大辞典」によれば、これらの様々な意味が中世以後、仏教の文学や説教が「悲」という字を必要としたために統一されて悲哀の意味だけが標準語になっていったという。

 明治生まれの啄木が、悲哀以外の意味で「かなし」を使っていたのは、方言としてこのような使用法が残っていたからであろう。

 方言では「いとしい・かわいい」という意味が青森県・宮城県栗原郡・秋田県鹿角郡・琉球(かなしゃん)、「いとおしい・かわいそう」が青森県・飛騨、「はずかしい」が富山県礪波・加賀、「病気などで具合が悪い」が伊豆大島・三宅島・名古屋・隠岐周吉郡東郷・高知県土佐郡土佐山、「満足でない・不足である」が伊豆三宅島に、現在でも残っているのだそうだ。
 
 

 「一利己主義者と友人との対話」にはこんな文章が出てくる。

  人は誰でもその時が過ぎてしまえば間もなく忘れるような感じを、常に経験している。
  一生に二度とは帰ってこないいのちの1秒だ。
  おれはその一秒がいとしい。
  おれはいのちを愛するから歌を作る

 この「いのちの一秒」「電灯のぬくもりに秋をふっと感じるような一瞬」への愛が啄木に歌を作らせているのだという。
 

 啄木にとって「かなしい」という言葉は、「悲しき玩具」というタイトルにも使われている重要な言葉だ。
「かなしき玩具」とは歌のことであり、この「かなし」には啄木の歌に対する飾りのない本心、拮抗する二つの感情が表れているのではないだろうか。

 その一つは前述の「歌を歌うしか出来ない、貧しい悲しい自分」という意味であり、
もう一つは「愛しい」「可愛い」という意味なのではないか。

 「悲しき玩具」が「悲しきガング」などではなく、
「愛しいおもちゃ」「切ないおもちゃ」といったような意味を持っていたと思うと、
石川啄木が文学史上の偉い人ではなく自分と似たような親しみ深い人間として
そこに立っているような気がしてくる。
 
 
 

*参考文献*
『石川啄木集』昭和25年5月10日発行 新潮文庫
『日本国語大辞典』昭和28年9月1日発行 小学館
『国語語源辞典』1976年7月25日発行 校倉書房
『日本語語源辞典』1964年7月1日発行 現代出版
『語源大辞典』昭和63年9月20日発行 東京堂出版
『喜怒哀楽語辞典』昭和38年6月15日発行 東京堂出版
『岩波古語辞典』1990年2月8日補訂版発行 岩波書店


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