現在動いている言葉
 

 言葉は変化する。いま普通に使っていることばも数百年前は全然違う使われ方をしていたり、存在しなかったりした。
 数百年後にも同じことが起きているはずだ。
 そこで平成十一年現在目に付くおもしろい変化について書きとめておこうと思う。


副詞

 いわゆる副詞は、非常によく変化する。
 日本の国語の教科書を開くと、陳述の副詞には「呼応」というルールがあり、
例えば「全然」という副詞が出て来たらその下には必ず「〜ない」など「否定」にあたる表現を使うということになっている。
「おそらく」には「〜だろう」など推量する言葉、「一体」には「〜だろうか」など疑問の言葉。

 しかし、このような呼応の規範は、副詞が生まれて以来常に一定だったわけではない。
 例えば梶井基次郎は、「檸檬」(大正十四年)の中で「一体私はあの檸檬が好きだ。」と書いているし、
石川啄木は「一利己主義者と友人との対話」の中で「一体歌人にしろ小説家にしろ、すべて文学者といわれる階級に属する人間は無責任なものだ。」と書いている。

 また、「江戸語大辞典」という江戸時代の日本語を扱った辞典では「まさか」の項に次のような用例が紹介されている。

 まさか(副詞)
 (3)いかにも。はなはだ。寛政十年・傾城買二筋道
 「なぜあのよふにした事かと、まさか名残のおしまれてしきりに哀れと胸せまり」

「なぜあのようにしてしまったんだろうと、非常に心残りがあって残念でならず、しきりに悲しみが胸に迫り」というような意味である。
今、「あの時はまさか悲しくてさあ」などと言ったらまず「非常に悲しくて」の意味に受けとられることはないが、二、三百年か昔にはそういった言い方もしていたのだ。

 また、室町時代の日本語の様子がしめされた「日葡辞書」には次のような項がある。

 サクサクト 副詞 抜け目なく、機敏に、てきぱきと
 §さくさくと物を言ふ人ぢゃ。(機敏に きっぱりと物を言う人である.)
 また、梨とか柿とかのように、固いままでままで熟した物が、歯で噛み割られたり、かみ切られたりするさま。

 後者の意味は今でも使われているが、前者の意味はあまり聞かない、
…と思っていたが、実はこの表現は近年「若者言葉」の中に復活したことがあった。
 いわゆる「若者言葉」とは、例えば「とても暑い」を「超暑い」あるいは「マジ暑い」と表現したり、
「ケンタッキーフライドチキンで食事する」ことを「トリる」と表現したりする、おもに若者が好んで使う一過性の特殊な言葉の事である。
 この中に「さっさと片づける」ことを「さくさく片づける」というように表現する物があった。

 私がこの表現を耳にしたのは平成四年ごろ、クラブ活動中に先輩が「さくさく移動して。」と言ったのを聞いた一例のみだが、
テレビのクイズ番組などでも紹介されていたので実際に使われていたことは確かである。
 その後平成十一年現在ではあまり聞かれなくなったように思うが、
このような若者言葉と同じ表現が四、五百年前の日本にあったというのは興味深い事だ。
 もしかすると方言など、水面下で脈々と受け継がれてきたのだろうか?
 
付記…さらにその後この言葉は「メモリを増設してサクサク動くようになった」等、
主にパソコンが素早く動作することを表現するようになった。
 この用法は定着したようだ。



「こと」と「とき」

 「これ食べたことある?」の代わりに「これ食べたときある?」と言う表現が出て来た。
 私がこの言い回しを初めて聞いたのは平成六年のことであった。
川崎でバイト先の人(当時二十七才標準語の人)が「Aさんこの仕事やったときある?」と聞いてきたときだった。
一瞬「お、なんだその言い回し」と思って心に留めておいたのでたしかである。
以後大学内などでも聞かれるようになった。それ以前からこの言い回し知ってたってひと、掲示板に書き込み下さい。

 ところで学校で文法を習う際には、用言の活用のところで必ず各活用形の「続くことば」を教えられる。
未然形は「〜ない・〜う」、連用形は「〜ます・〜た・〜だ」ときて、
連体形は「〜とき・〜こと」となっている。
 ここでは「とき」と「こと」は、言わば体言の「代表格」とされている。
その二つの言葉が、特定の表現の中で入れ替わりを見せているのはおもしろい。

 これはいわゆる「若者言葉」とは趣を異にしているようだ。
「ら抜き言葉」や「超○○」のように年輩者の心を不愉快にはないらしく、
特に意識されないまま進行している。けっこう変な言い回しなのに。
 このまま定着していくのか、他の若者言葉と同様に一過性の揺れにすぎないのか、非常に興味深いところである。
 

「へらす」が「へらせる」に

 「笑っていいとも」を見ていたら「だんだん人数を減らせるアンケート」というゲームをやっていたことがあった。
私の個人的な言語感覚では「減らす」でいいところだ。
 可能助動詞では

   見られる(mirareru)→見れる(mireru)

と「ar」が抜け落ちて行ってるのに、この使役的な語尾の場合

   へらす(herasu)→へらせる(heraseru)
 
と「er」が増えて行ってる。る・らるとす・さすの不思議な反比例。

 また91年5月9日の「宝島」に
「フセインを説得させるのはだれだ」という川柳が載っている。
「させる」じゃなくて「する」が意味的には正しいと思うが、パッと読むとこれでいいように聞こえる。
ということはある面これでいいともいえる。選者も気付かなかったわけだし。
 字数をそろえるためなら「説得できる」等でもいいのに「させる」を選んでしまう程には、
これが自然な言い回しに思えたらしい。

 また、金田一京介は「文法のもひとつ奥」という随想の中で、「バスから降ろして下さい」というのは
本来「バスから降りさして下さい」というのを簡単にいいなおしたものだと書いている。
「降ろしてください」だと運転手がその人をよいしょと持ち上げて降ろして上げる意味になってしまうのだそうだ。
 書かれたのは昭和十七年。このことは現代の私たちが見ると「ほんとに?!」と意外に思えてしまうことだが、
金田一だけではなくバスの運転手や乗客らもみなそう思っていたことが書かれている。
 使役に関わることばも、長年にわたっていろいろあったのだと感慨深い。
 

 以上、生きている言語は絶えず変化していることを示す好例をいくつか挙げてみた。

 文法書を片手に外国語を習っていたりすると、言語というものは頑健でゆるぎなく決して規範を変えたりしないように錯覚してしまうが、そんなことはない。

 「こと」→「とき」など、一部の変化は年輩者のカンには障っていないようだ。
変化というのは意識されれば忌み嫌われるが、気づかれなければ……気づかれない。
 これらの変化がこのまま消えてしまう言葉の揺れなのか、
定着していく変化のはじまりに立ち会えたということなのかわからないが、
20世紀末にこんな揺れがあったということを記憶しておくためにこの駄文が役に立ったらとても嬉しいと思う。



お決まりでしたか 02.08.12付記


喫茶店で注文を取りに来たウェイターがこう言ったことがある。
「ご注文はお決まりでしたか?」
「は?」
私は一瞬、「この店で私が以前にした注文のことを、…いや何か別のことを聞かれているのだろうか?」
と思って聞き返してしまった。

実は「お決まりですか」が過去形になっていただけで普通に注文を聞かれただけだった。
もうずいぶん前のことで、そのときは奇異に、というか不愉快に感じたのですぐ記憶から消してしまったが。
新しい接客用の待遇表現らしい。


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