啄木と古今和歌集
 

 秋の聲 まづいち早く 耳に入る かかる性持つ かなしむべかり

 この啄木の歌によく似た風景の歌を古今和歌集の中に見つけた。

 古今集 秋上
 一八六 わがために 来る秋にしも あらなくに 虫の音聞けば まづぞかなしき
   私のために来る秋だときまったわけではないが、
   初秋の虫の声を聞いていると、真っ先に私は悲しくなる。

  (注 秋は私のためだけに来るのではないが、悲しくなるのは
   私がいちばん先だ―という論法である。
   この種の理屈は読人しらずの歌にも少なからず見られる。)
         「日本古典文学全集7古今和歌集」校注・訳者小沢正夫
          昭和四六年四月一〇日発行小学館

  この歌は啄木の歌と同様「自分が一番先に秋の到来気付くのだ」
「詩心があるのだ」というようなことが歌の内容に強く含まれている。

  他にも

 おほかたの 秋来るからに わが身こそ かなしきものと 思ひ知りぬれ(一八五)
 (誰の上にも来る秋が来ただけなのに、私の身の上こそ誰にもまして悲しいことがわかった。)

 月見れば ちぢに物こそ かなしけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど(一九三)
 (月を見ていると、私の連想は際限なく展開して、なんとなく悲しくなる。
  私のからだ一つのためにある秋ではないのだが、思いはなんとたくさんあることだろう。)

 などが同じ内容の歌として挙げられる。

  これらの歌は共通して、秋が自分のために来るかどうか、
 あるいは自分が一番先に秋を感じるかどうか、
 一番悲しいのは自分かどうか、といったことを歌っている。
  秋に関する自己の他者への優位性について 歌うことを通して、
 人生のもの悲しさや切なさを表現しているのだろうか。

  このように、何人もの人が同じテーマで各々自分の歌を歌うということは
 この時代よくあったことのようである。
  例えば古今和歌集や源氏物語には
 「恋をしているときに月を見るとふらふら家を出歩いてしまう」という同じシチュエーションを含む歌がよく見つかる。

  啄木の歌った「秋の聲/まづいち早く/耳に入る/かかる性持つ/かなしむべかり」という歌は、
 これら古今和歌集の一連の秋の歌を本歌取りした物ではないだろうか

  この歌は単独で見るより、「秋を一番に感じるのは自分かどうか」についてを題材にした一連の歌を知った上で、
 それを更に一歩すすめて、「秋を一番に感じる自分はかなしい」と歌ったのだと思って鑑賞すると、
 より味わい深いのではないかと思う。


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