「どうやってどの姫だと突き止めようか。父君の右大臣などが聞いて仰々しく婿として扱われるのも、どんなものか。まだ姫がどんな人なのかをよく見定めていないうちは具合が悪いだろうな。かと言って知らないままでいるのはまた、ひどくもったいないことだし、どうしよう。」と思い悩まれて、ぼんやりと中を見つめて臥していらっしゃった。
「若紫の姫君はどんなにおさびしいだろう。会いに行かないで何日にもなるからふさいでいるに違いない。」と、愛しくお思いやりになる。 あのしるしの扇は桜の三重重ねで濃い方に霞んだ月を掛けて水に映してある図案はよくある物だったけれど、持ち主いとおしさに、手に取ってまさぐっている。「草の原をば」と口ずさんだ様子ばかりがお心に浮かぶので、 世に知らぬ 心地こそすれ 有明の
昨日まで まるで知らずに 生きてきた
と書きつけられて、お置きになった。 |
かきて…「描いて」が正しいが「掛けて」の写し間違いではないか捜査中。
世…「人生」「男女の中」。副詞「世に」は「決して」「断じて」などの意。「よ」は他に「夜」という意味もかかっているかもしれない。また、夕霧巻にも「いとまだ知らぬ世かな。」という表現がある。
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「左大臣殿にもご無沙汰してしまっている。」と思われたが、若紫のことも気にかかって仕方がないので「ご機嫌を取るかな。」とお思いになって三条の院へいらっしゃった。
姫君は見るたびに大変可愛らしく成長していって、魅力的になり、利発なところが秀でている。「一つの疵もなく、僕の思い通りに教込もう。」との思し召しにかなったのにちがいない。男手の躾けなので「少々人見知りしないところがあるかな。」と思われるのは、心配ではあった。常日頃のお話やお琴などを教えて何日か暮らして、お出かけになるのを、若紫は「やっぱり行っちゃうのか。」と残念にお思いだが、今は非常によく躾けられておりむやみに後を追ってつきまとったりはなさらない。 左大臣邸の方(葵の上)においては、例のごとくすぐ対面ということはなさらない。源氏は所在なくあれこれと思いめぐらされて、箏の琴をまさぐって「やわらかに寝る夜はなくて」とお歌いになっていらっしゃる。
あの有明の女は、はかなかった夢のような逢瀬をお思い出しになって大変辛い気持ちでぼんやりしていらっしゃる。父大臣は東宮には卯月あたりに入内させようとお思い定めであったので、もうどうしようもなく思い乱れていらっしゃるのだった。男も、お探しになるのにあてがないわけではないが、どの姫とも知らず、ことにご自分をお認めになっていない御一家にかかずらいに行くのも決まり悪く、思い悩まれているころに、弥生の三十余日、右大臣の弓の協議に上達部、親王たちがたくさんお集まりになってそのまま藤の宴をなさる。
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生ひなりて なる…植物の実が「なる」ように時が自然に経過してゆくうちに、いつの間にか、状態・事態が推移して、ある別の状態・事態が表れ出る意。[岩波]
教へなさむ なす…・以前には存在しなかったものを、積極的な働きかけによって存在させる。・すでに存在しているものに働きかけ、別なものに変化させる。[岩波]
新しう あたらし…対象を傍から見て、立派だ、素晴らしいと思い、それが、その立派さに相当する状態にあればよいのにと思う気持ちをいう。[岩波]紫式部の意地悪な目線がうかがえる箇所。 |
寝殿で、女一の宮、女三の宮のおいでになる東の戸口に向かわれて長押に寄りかかってお座りになる。藤はここの端に当たって咲いているので、御格子なども開け放しにして女房たちが端近に出てきて座っている。袖口などが踏歌の時のようにことさらめいて出ているのを、「わきまえていないな」とどうしても藤壺の辺りを思い出されてしまう。
「気分が悪いのに、むやみにお酒を強いられて弱っているんです。すみませんが、こちらの御前には陰にでも隠れさせてください。」と、妻戸の御簾を引いて頭をお入れになるので、女房が「あら、いやだ。身分の低い人なら高貴な所縁を頼ってきますでしょうけれど。」と言う気配をおうかがいになってみると、威厳はありはしないがただの若女房などではなく、上品に美しい気配がはっきりとある。空薫物がとてもけむたく漂っており、衣ずれの音はことに華やかで派手に振る舞っていて、奥床しく控えめな雰囲気は欠け、目新しいことを好む家柄であるし高貴な内親王方が物見なさるということで姫君たちもこの戸口を占領していらっしゃるのだろう。源氏は、あまりするべきではないことだけど、それでもどうしても確かめたく思われて、あの姫はどこだろうと胸を高鳴らせつつ、「扇を取られて辛き目を見る」とそらとぼけた声でわざと言い、身を寄せておいでになった。「よく分らない、変わった高麗人ねえ。」と答えるのは事情を知らない女房であろう。返事はせずに、ただときどきため息をつく気配のする方に寄っていって、几帳ごしに手をとらえ、 「あづさ弓 いるさの山に まどふかな ほの見し月のかげや見ゆると あづさ弓 月の隠れた 山の中 道を失い どうすれば よいか判らず いるさ山 迷っています ただ一度 ほんの一瞬 見た月の 影でももしや 見れはすまいかと どうしてなんだろう。」 と祈るような気持ちでおっしゃると、女も押さえきれなくなったのだろう、 心いる かたならませば ゆみはりの
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御前にこそは…「御前に参りては色も変はらで帰れとや峰に起き臥す鹿だにも夏も冬も変はるなり」[梁塵秘抄三六〇](お前に参詣したのち、色も変わらないで帰れというのか。峰に起き臥す鹿でさえも、夏と冬の毛は変わるのだ。)は参考にならにだろうか。 つまり「参詣したのに巫女に会っても心を動かさないで帰れというのか(=あなたがたと何もないまま帰れと言うのか)」というような意味を源氏はほのめかしているかもしれない。 をかし…好意をもって招き寄せたい。[岩波] まどふ…事態を見極め得ずに混乱して、応対の仕方もを定めかねる意。[岩波] 何故か…「何故か 思はずあらむ 玉の緒の 心に入りて恋しき物を」(いかなる理由で物を思わずにいられよう。紐の緒のように、あなたがわが心に入り込んでこんなに恋しいものを。)[万葉集巻十二]二九七七
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***参考文献***
「日本語で一番大事なもの」大野晋・丸谷才一著 中公文庫 一九九〇年一二月一〇日再版(本文中「A」と略した)
「岩波古語辞典」大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編 岩波書店 1991年1月25日補訂版第2刷発行(本文中[岩波]と略した)
「源氏物語 第二巻」玉上琢彌訳注 角川文庫 平成六年六月二〇日二四版発行
「新潮日本古典集成 源氏物語二」石田穣二・清水好子校注 新潮社 昭和五二年七月一〇日発行
「万葉集」中西進校注 講談社文庫 1981年12月15日発行
「古今和歌集」小沢正夫校注訳 小学館 昭和46年4月10日発行
「神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集」臼田甚五郎・新間進一校注訳 小学館 昭和50年3月20日発行
「堤中納言物語 とりかへばや物語」大槻修他校注 岩波書店 一九九二年三月一九日発行
「続後撰和歌集」
および「KAORI文学工房」のKAORIさん。(※のところ)